亡き母を偲ぶ日々

母親が他界してそろそろ1ヶ月立ちますが気分は沈んだままなかなか上がってきません。昔の写真をよく見たりしていながら、母親がまだ20数年に渡り恒例となった夏休みに実家戻りの私を待っているような気がします。母親と別れの予感が全くない訳じゃないが、去年夏休みに実家帰リ母親と2週間居ましたが、行動不便以外、飲食や会話は異常なかった為、少なくともまた5、6年位生きられるかと思いました。余りにも突然過ぎたのです。

母親の人生は平凡であり非凡でもありました。多数のキャリアウーマンと同じ普通に仕事をしながら結婚し子供を育てる人生でした。非凡と言えば、彼女は文弱に見える女の身で、苦難を強いられた人生の道を乗り越えた。武昌に生まれ、戦乱時祖母の世話で当時比較的安全と思われる重慶の学校に入学した母親は、当時友達以上恋人未満の男性クラスメートの助けによって妻いるしつこい国民党軍官から逃れたこと、祖母との連絡を失うこと(祖母が全国で探して再会できたのが1960年頃)、その恋人未満の方との連絡を失うこと(彼があちこち探し再会したのは1970年少し前)、その後仕事でかかわる妻いる県長からのご「好意」を断りなど、いろいろとありました。さらに1957年から父親とともに「右派」とされて「文革」が終わるまで、20年近くにわたって批判されたり農村へ下放された。不幸の連続の人生でしたが、母親は負けず倒れず、一生懸命仕事を続け、父親と支え合いながら子ども達を育ちました。また、自分の3人子供のほかに私の(父方)の3人の従兄弟を家に受け入れて生活や学業をサポートしてあげました。偉大な母親に、私は足元にも及ばないです。

母親についてはいくつか不思議な伝説があります。両手で同時に銃を撃てるとか、本当かと確かめると従軍したことさえないからできる訳ないじゃんと言われた。また、両手で同時に算盤を弾けるとか、これも確かめるとそんなことできると良いねと大笑ってました。結局ただの伝説ですが、善意的だと思います。若い時の母親がきっときれいだけじゃなくて、もしかして少し女傑だと思われる気質もあり、人々の伝説創作へのインスピレーションをかき立てたかもしれません。母親の字は筆勢がたくましく、龍が踊りあがり鳳が舞い上がるようで流れる雲や水のように、全く文弱な女性の字だと思われず、女傑だと思われたのは彼女が書いた字だったかもしれません。

明るく、どんな悪運に翻弄されても倒れず、良妻賢母、俯仰天地に愧じず..母親に関する思い出は山ほどあります。特に忘れられないのは、私の子供時代、両親共に悪運のど真ん中の時期でも母親の近隣との陽気な話し声や笑い声、今でも響いているようです。今いるあの世には、争いも苦難もないでしょう。鳥がさえずり花が咲く高山流水の中で父親と再会し手を繋いで天国に昇ることをお祈りします。

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