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 中国での経営は「コマツウェイ」という、全世界のコマツ経営の根幹をなす理念に基づいてはいるが、中国という国の特性にふさわしい方法で実践している。だからこそ、経営は現地トップに任せるのである。しかし、「よいモノをつくる」という、コマツの遺伝子だけは、どこの国であっても変えることはない。あくまでも、日本発の技術の種を各地に蒔き、それぞれの国で大きな花を咲かせようと努力を続けるのである。
 本書では明治維新後の日本の近代化の活動の中から、コマツの原点とものづくりに賭けた遺伝子を探り、第二次世界大戦後の復興を下敷きとし、その後に続くグローバル化の動きを、私自身が経験した事をベースにしながら、ものづくりとは何か? ビジネスとは何か? 会社とは何か? 世界はこれからどうなるか? どうあるべきか? などに対する私なりの答え出していこうと思う。この答えが正解かどうかはわからないが、読者の皆さんが、これらのことを考えるヒントにはなるであろう。
 さらに、私がこだわりを持ち続けてきた中国との関係に関しても、体験をベースにお伝えしていきたい。

 新入社員の私は、まずTQCの教育を受けた。全員対象の社内初歩教育、社外の統計処理専門教育、先生が来社しての現場での実地教育。社内中が「TQC、TQC」であふれていた。

 日本語に「余生を楽しむ」、英語に「Happy Retirement」という表現がある。多くのアメリカ人トップは、「CEOを長くやらずに、引退後を楽しみたい」という強い願望を持っている。そのためにCEOとして、すこぶる高い給料を取っているのかもしれない。その代わり、後悔しないために、現役のCEO、社長時代には仕事のみに全力投球する。寝食を忘れて猛烈に働く。
日语“享受余生”,英语中的「Happy Retirement”的表现。很多的美国人首位,“CEO不长,期待引退后”的强烈愿望。因此,作为CEO,说不定相当高的工资。为了不后悔,现役的CEO,社长时代只会全力投球。把寝食地工作。

私の社長としての給料は、当時の日本企業の社長の平均程度だったから、さほど高給ではなかった。だが自分でも、よく働いたなと思う。「あんなに海外出張を繰り返していたら、社長として、社内の仕事ができないではないか」と批判する、社内の同僚、部下は少なくなかった。
作为我的社长的工资,是当时的日本企业的社长的平均水平,所以并不那么高。但是自己也觉得工作很好。批评“那么多海外出差,总经理说,公司内的工作不是可以吗?”,公司的同事,部下也不在少数。

私は、専務取締役建機事業本部長の時代に、社長としてやるべき仕事は、かなり済ませていた。グローバル化の推進、情報武装、人材育成、役員人事、これだけを私がやると決めていた。これ以外の仕事は、他の役員に任せるようにしていたのだ。やり残したことはもちろんあるが、それは仕方がない。こうして、64歳で社長を退任した。会長退任は68歳だった。自分勝手に決めていた予定より、一年遅れての決断だった。
我在专务董事事业事业部部长的时代,作为社长的工作,是相当办妥的。在全球化的推动,信息武装,人才培养,职员人事,这是我做的事。除此以外的工作,就交给其他的管理人员了。当然没有做的事当然有,那是没有办法的。就这样,64岁就卸任社长了。会长卸任是68岁。与其擅自决定,不如预定了一年的决断。

現役の間、時間当たりの仕事の密度は濃かったが、働く時間そのものはそう長くはなかった。家には早く帰り、家内の夕食を楽しむ機会は、社長になってかえって増えた。カラオケも嫌いなので、苦手な宴会は得意な人に頼み、よほどの相手でない限り、勘弁してもらっていた。「手抜き」といわれればその通りだ。社長、会長としてやるべき仕事は、現役でいるときに最善の努力を尽くす。65歳と決めていた退任の予定の妨げになりそうな、社内外の役職就任依頼は、意識的に引き受けないでお断りした。義理で引き受けてしまうと、予定時期での引退が難しくなる。辞退を続けていると、やがて依頼は来なくなる。これでいいのだ。
现役之间,每小时工作的密度浓了,工作时间本身并不长了。回家的机会,早点回家的机会,就当社长的社长反而增加了。我也不喜欢卡拉OK,不擅长的宴会就要向拿手的人拜托,不要太多的对手,就饶了你。如果说“偷工减料”就是那条街。总经理,作为会长应该做的工作,在现役的时候最好的努力。65岁决定了卸任的预定的妨碍的感觉,方案的职位就任委托,要有意识地不承担拒绝了。以义理所承担的话,预定在预定时间引退。不辞退的话,不久就要委托了。这就好了。

引退後に引き受けたのは、「公益財団法人 日本花の会」の理事長。コマツが社会貢献として50年以上続けてきた活動だ。茨城県結城市に、総面積約83,000平方メートルという広大な農園を持ち、国内外から約350種の桜の品種を収集、植栽、育成をし、日本国内のみならず、世界中に桜の苗木を配布し、桜の名所作りに貢献している。数十年の間に配った苗木の数は220万本を超える。桜好きの花咲爺さん、花咲婆さんが集まり、約3000人の個人会員がいる。(*図版43、図版44、図版45入る)
退役后,“公益财团法人日本花的会”的理事长。小松社会贡献和50年以上持续的活动。茨城县结城市,拥有总面积约83万平方米的广阔的农场,在海内外收集约350种的樱花品种,栽种,培育,日本国内,在全世界分发樱花的树苗,为樱花的名胜作贡献。几年的时间发给的树苗超过220万本。喜爱樱花的开花爷爷奶奶,花开,聚集了约3000人的个人会员。(*插图43、插图44、插图45)

 農園、造園の専門家を擁し、樹木医の養成、桜並木の保護養生などを手伝う活動も行っている。法人会員もいるが、コマツも財政援助している公益財団法人で、国の支援は受けない民間活動である。この仕事を引き受けたおかげで、門前の小僧よろしく、桜に少し詳しくなった。毎年、桜の開花時期に合わせて、全国各地の桜の名所でシンポジウムを開く、多くの会員たちと、各地の由緒ある桜見物を楽しんだ。
 唐代の杜甫や李白の詩もいいが、日本の万葉集にも素晴らしい和歌がある。私の好きな歌は、詠み人知らずだが「春雨に争いかねて我が屋前(やど)の桜の花は咲きそめにけり」(まだ咲くのは早い、と抵抗していた私の庭の桜のつぼみも、春雨に誘われて、我慢しきれずに咲き始めました)という一首だ。

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